わかり合う事の難しさ
人という生き物は群れて生活する事が基本である。
群れて生活する時に必ず起こるのはコミュニケーションだ。
その中で狩猟生活をしてた我々の祖先は平等に獲物を分ける事を実践する事で仲違いなどのトラブルを避けてたと言う。
しかし、農耕生活が始まって備蓄が出来るようになると富める人とそうでない人が現れる。
今で言うと金持ちと貧乏人だ。
そうすると立場の違いからいざこざが絶えなくなり、権力争いも含む略奪があらゆる所で発生する。
農耕生活以降の歴史はこの富や権力争いによる戦争の歴史と言っても過言ではない。
でも今は色んな思想の発達で争わなくてもいい選択が出来る時代でもある。
世界中の人達が同じバックボーンで生活してるならおそらくわかり合うのは容易いのかもしれない。
しかし、現実は同じ地域ですらバックボーンが違う人達が生活をしているからいざこざが起きるのは不思議ではない。
だから口を酸っぱくして言わないといけない「わかり合う努力」の大切さを。
もちろんわからない事や理解ができない事もあるのは当たり前だ。しかし、わかろうとしないままで過ごそうとすればいつか必ずどこかでいざこざが起きるのだ。
世界中のいざこざは社会システムの変用で一層複雑化しているから尚更わかりにくくなっている。
バックボーンが違えばわかりあえる所も少なくなり大抵の人は投げ出すのだろう。
ただバックボーンが違えどわかりあえる可能性がある箇所がある。それは
人としての在り方だ。
人として生きる以上は最低限のルールが存在していてその上に教えや法律、条例などのローカルルールが存在する。
教えや法律、条例の部分でわかり合えないとしても人としての在り方ならわかり合える可能性がある。
一例を出せば、どの国や地域でも殺人が合法になってる国は法治国家であれば罪に問われるように人が生きる上で最低限守らなければいけないグローバルルールも存在していて、殺人はいけないのは万国共通なはずだ。
だから絶対わかり合えないと言い切ってしまった時点で戦争の火種を自ら作ることになる。
わからないのは仕方ないが、わかり合う努力をしないでわかりあえないから殺しますと言ってもいいとはならないはずだ。
人が人としてわかり合う事の難しさは確かにあるが、わかり合う努力もしないで頭から否定するのは人としては落第なのだ。
繰り返しになるが、わかり合う努力もしないで頭から否定するのは人として駄目な証拠なのだ。
こんな事を言ってる私自身もわからない、理解出来ない事はもちろんある。
だからと言って話し合いの門戸を閉ざしたりは絶対しない。誰でもわかり合う可能性があるのだから。