刹那・F・セイエイの世界の歪みを駆逐する

世の中の理不尽と戦う1人のおっさんの提言ブログです。

同調圧力と課題の分離①

再び「同調圧力」について取り上げる。

まず同調圧力の意味を詳しく載せる。

f:id:setuna-f-seieis:20190406233416p:image

詳しく書かれているが、簡単に言うと「正邪とは関係なく多数意見に少数派を強制的に従わせる力」という事だ。

 

問題は「正邪とは関係ない」点にある。

正しい意見や行動なら多数派になる事も多いし、反発する人を見れば間違いを的確に指摘すれば、ほとんどの人は納得するだろうし、仮に納得しない人が居たとしても少数派でいわゆる犯罪者予備軍のよう扱いになり同じ社会で暮らさないといけない以上、最終的には改善に取り組む。

 

ところが同調圧力は正邪とは関係無いから発端は数人くらいとしてもあれよあれよと同調人数が増え、明らかな間違いだったとしても正しき少数派がいわば公開リンチ状態になって同調せざるを得なくなる状況へと見事に追い込むのだ。

 

「赤信号 みんなで渡れば怖くない」

 

数十年前に流行った言葉だが、この言葉に日本の同調圧力の強さを垣間見る事ができる。

このルーツをたどれば、遥か昔の農耕文化の黎明期にまでさかのぼらなければならない。

ルーツの話をすると長くなるので今回は割愛するが、役割分担と共同作業を効率良くしないといけないために発展した思考が同調圧力なのだ。

 

本来人は異端を嫌う。過去の歴史をたどれば世界のどこかで異端者達の迫害の歴史に出会うことができる。ところが日本では他国のような異端の明確な設定は存在しない。わかりやすい言葉で表現するなら「なんとなく」「みんなが言うから」「感覚で」などと理屈や論理とは別の世界の感覚で判断してる事がよくわかる。だからターゲットは全国民に可能性が残されている事に全く気づかない。

 

わかりやすい言い方をするなら「マジョリティ(多数派)」と「マイノリティ(少数派)」が存在していて、日本人はたいした信念も持たずにマジョリティになろうとする傾向が強い。それは日本特有の感覚でとにかくマジョリティになりたいからそうするという私から見るとチンケな感覚で物事を決める。

この同調圧力という魔物は人々の感覚を狂わせて正しき方向には導かないという点においても日本社会の癌の一部と言ってもいいだろう。

 

ではこの「同調圧力」を克服と言えば言い過ぎなのかもしれないが、同調圧力に屈しない自分らしい生き方のヒントとして「課題の分離」について語りたいと思う。

どうしようもない人達

世の中には本当にどうしようもない人達がいてる。

こちらがいくら論理的に話を進めようとしても、威嚇、こじつけ、戯言、イチャモンなどなどありとあらゆる意味不明な文句を言ってくる。

 

どうしようもない人達は決まって日本語が不自由だ。

どういう意味かと言うと抽象的な言葉や表現を使って相手に伝え、自分の予想をしない言葉が来た時に「お前は話を理解してない」と返事を返すのが常套手段なのだ。

 

私から言わせればもっと具体的に「どこどこの言葉がこういう感じで適切でない」と言ってくれれば同意できない事項であったとしてもきっちり反論なり解釈の違いの説明ができるが、抽象的な言葉や表現の場合は相手の意図するところを推理しなくてはならないためASDの私には困難を極める。

ASDの特性を知らない人からすれば「なぜわからないの?」と思うのはおかしくはないが、こちらがオープンにASDを公表してるにも関わらず前段の指摘の仕方をされれば意図がわからないから聞き直すしかなく、聞き直すと罵詈雑言を浴びせられるケースが過去にはあったのだ。

 

「相手を変えることは絶対できない」とは心理学者のアドラーの言葉だが、過去の自分も含め相手を変えられると思っている人はかなり多いと思うし周りもできるんだと思ってるように感じる。

人は個人個人バックボーンが違うから同じ出来事があったとしても捉え方に個人差が出るのは当然なのにそれを否定してかかる人までいるのだ。

 

もちろんそれぞれの正義はあってもいいが、それが反社会的だと認識すれば変えなきゃと自覚しないといけないのにどうしようもない人達は決まって相手が悪いと決めつけをするからタチが悪い。

要するに自分と自分に同調する人のみ正しいとするからおかしくなる訳でこれこそ同調社会の弊害と言えるだろう。

 

どうしようもない人達の対応としては基本的には関わらない、どうしても関わりたいもしくは関わらないといけない時はとことん突っぱねるか表面上だけでもイエスマンになるしかないだろう。

前者だと言い争いが絶えないし、後者だとこちらのダメージが増大して最悪動けなくなる可能性すらあるのだ。

だからできるだけ関わらないのがベストの選択と言えるだろう。

 

どの道を選ぶのも皆さんの自由ですが後悔だけはなさらないように気をつけましょう。

信念を持って生きる

私は最近改めて感じた事がある。

 

それは「信念を持って生きる」事の大切さを

 

ちなみに信念とは

f:id:setuna-f-seieis:20190330231750p:image

いろいろ書いてるが確固たる考えや思想だと私は感じているし強く思っている。

 

信念自体は若い頃からずっと持ち続けているが、今考えればかなり危なっかしい考えで、ひとつ間違えればとても危険な奴のレッテルを貼られても仕方ないと思う。

と同時に自分の信念が揺らぐのをものすごく恐れていたのではないか。

 

でも今は揺るぎない信念を持っていると堂々と言える。

それはやはり人生経験が歳を重ねるにつれて多くなり、同時に色んな書物を読み漁った経験が答え合わせになって自分自身が納得できる事が増えたのが大きい。私の口癖に「出自や年齢、性別は関係ない」というのがある。私がこだわるのは思想やイデオロギーやその根底に眠る信念のみだ。逆にそれ以外はさほど興味がなく乱暴な言い方をすれば些末なことなのだ。

 

もちろん全ての人が全く同じ信念を持っていたらどうなるのだろう。

私は同じだろうと違うかろうと別に構わない。

信念とは個人で保つもので、開示する必要もないが他人に押し付けるのも違う。

 

信念は難しく捉えるならどんどん難しくなるし、単純に捉えるならシンプルに捉えるような気がする。

でも信念を持つのと持たないのとではうんでんの差である事は間違いない。

 

 

物事や問題の本質に迫る

私は生きてきた人生の中で多くの疑問を抱えてきたし、今も抱えている。

 

その中でいくつかの疑問を解くきっかけがあった。

 

ベースは18歳~鬱を発症する30代までの間にたくさんの書物やマンガを読み漁った。

ジャンルで言うと歴史小説から始まりその作品の解説書か分析書、人物像に迫った物まで月10冊位のペースで読んでた。傍から見れば本の虫そのものだっただろう。

 

そのベースを基にして養老孟司さんの本やアドラー心理学の解説映像を見たりして徐々にだが自己分析が出来るようになった。

これがポイントなのだがいろんな本や映像の出会いがひらめくきっかけをくれたのだ。

エジソンは発明を「1%のひらめきと99%の努力の結果」だと言った。エジソン自身はこの発言の真意について、1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄になる、世間はこれを美談にして努力をする事のみが成功の秘訣だと言いふらしていると言ってたそうだが、逆も然りだと私は思う。

 

確かにひらめきがなければ努力が無駄になる事は間違いないが努力の先にひらめきがあると私は言いたいのだ。

ある物事に関して悩みに悩む状態とは悩みを真剣に解決したいから、考えられるだけのあらゆる手段を可能性として考えるから必ず問題を乗り越えるための壁が現れる。考えが行き詰まった時にその扉を開くのが書物だったり映像だったりする。

もちろん映像や書物以外でも扉を開くツールは数多くあるが、私の場合は書物や映像だった。

 

世間の多くの人達は些末な問題には目が向くが、本質を見極めようとする姿勢が弱いと感じる。

たくさんの人達が物事や問題の本質を見極めようとする姿勢になれば、きっと日本は否世界はきっと良い方向に向かうだろう。

無責任という名のレイシズム

まずはレイシズムについての意味を添付

f:id:setuna-f-seieis:20190324200857p:image

f:id:setuna-f-seieis:20190324200902p:image

 

さっとこんな感じ。

 

いわゆる「差別主義」だと思ったらいい。

でも、今の世の中に蔓延している「不寛容」の精神。そして不寛容な態度をとられても、ヘイト発言やデモに対しても声をあげない人が実に多い。

それはリアルだけではなく言論の自由空間でもあるSNSでも同様だ。

 

「差別主義」が人を退廃させる事は歴史が証明している。でも現在は主権が国民の国が大多数であるが、国民の多くは主権のありがたさなどは全くわからずただ堕落して人生を送っている人も多い。

 

ここで大切なのは「義憤」の精神だ。

 

人として生きる権利を侵害するあらゆる勢力や個人と戦わずして権利を護る戦いはできない。

堕落した人ほど権力者にとって都合のいい駒に成り下がる。

権力者の都合のいい駒が増えれ支配も容易に執行する事ができる。

そうなれば、民主主義以前の帝国主義の復活となるのだ。

 

逆に言えば「義憤」以外の怒りは争いしか呼ばない事も知っておく必要がある。

義憤無き人は勝手に責任を取らなくなり無責任という名のレイシズムへとなだれ込むのだ。

無責任な態度は世の中の退廃に多大な貢献をする。

このレイシズムの特徴として自覚症状が全くないところにある。と同時に自分は間違ってないと勘違いをするのもこのレイシズムの特性なのだ。

 

だから私はこれを粉砕したいと思っているが、いかんせん一個人には残念ながら限界があり関わりを持てる人も限られる。

本当は同志が欲しいところだが、人数だけ集めても仕方ないし烏合の衆は意味が無い。

だから地道ではあるがSNSを通じた啓蒙活動が大切なのは言うまでもない。

 

皆さんも無責任に流されず義憤を持って行動してこそ成長が出来ます。人が人として生きる意味もここにあるから。

 

わかり合う事の難しさ

人という生き物は群れて生活する事が基本である。

 

群れて生活する時に必ず起こるのはコミュニケーションだ。

 

その中で狩猟生活をしてた我々の祖先は平等に獲物を分ける事を実践する事で仲違いなどのトラブルを避けてたと言う。

しかし、農耕生活が始まって備蓄が出来るようになると富める人とそうでない人が現れる。

今で言うと金持ちと貧乏人だ。

そうすると立場の違いからいざこざが絶えなくなり、権力争いも含む略奪があらゆる所で発生する。

農耕生活以降の歴史はこの富や権力争いによる戦争の歴史と言っても過言ではない。

 

でも今は色んな思想の発達で争わなくてもいい選択が出来る時代でもある。

世界中の人達が同じバックボーンで生活してるならおそらくわかり合うのは容易いのかもしれない。

しかし、現実は同じ地域ですらバックボーンが違う人達が生活をしているからいざこざが起きるのは不思議ではない。

だから口を酸っぱくして言わないといけない「わかり合う努力」の大切さを。

 

もちろんわからない事や理解ができない事もあるのは当たり前だ。しかし、わかろうとしないままで過ごそうとすればいつか必ずどこかでいざこざが起きるのだ。

世界中のいざこざは社会システムの変用で一層複雑化しているから尚更わかりにくくなっている。

バックボーンが違えばわかりあえる所も少なくなり大抵の人は投げ出すのだろう。

ただバックボーンが違えどわかりあえる可能性がある箇所がある。それは

 

人としての在り方だ。

 

人として生きる以上は最低限のルールが存在していてその上に教えや法律、条例などのローカルルールが存在する。

教えや法律、条例の部分でわかり合えないとしても人としての在り方ならわかり合える可能性がある。

 

一例を出せば、どの国や地域でも殺人が合法になってる国は法治国家であれば罪に問われるように人が生きる上で最低限守らなければいけないグローバルルールも存在していて、殺人はいけないのは万国共通なはずだ。

だから絶対わかり合えないと言い切ってしまった時点で戦争の火種を自ら作ることになる。

わからないのは仕方ないが、わかり合う努力をしないでわかりあえないから殺しますと言ってもいいとはならないはずだ。

人が人としてわかり合う事の難しさは確かにあるが、わかり合う努力もしないで頭から否定するのは人としては落第なのだ。

 

繰り返しになるが、わかり合う努力もしないで頭から否定するのは人として駄目な証拠なのだ。

 

こんな事を言ってる私自身もわからない、理解出来ない事はもちろんある。

だからと言って話し合いの門戸を閉ざしたりは絶対しない。誰でもわかり合う可能性があるのだから。

 

 

本当の優しさって

生きていていつも問い直してる事がある。

 

それは「本当の優しさって何」って事を。

 

いろんな人達がいろんな視点でいろいろ言ってるのをよく目にする。

若い頃はたくさん本やマンガを読み、本が読めなくなった今は、動画や信頼できる人との会話の中でいろいろ気付かされる事ばかりだ。

 

現在の私が思う本当の優しさとは?

 

相手を出来るだけ受け入れる事

 

だと思う。

もちろん考えや思いが違ったり、すれ違ったりして合わない人も存在する。

でも、合わない人にまで受け入れる事は自分の心の負担になるからやめた方がいい。

それ以外の人には、自分が出来る範囲で受け入れる事が大切なのだ。

 

リアルでもネットでもこの原則は変わらない。

 

ネットではニュアンスや言葉の裏の意味が伝わりにくい点があるが、それでも真摯に発信し続ければわかる人には必ず伝わるので諦めずに実直な姿勢でい続けてほしいのだ。

もちろん騙す奴は存在していて、言葉巧みに誘惑するかもしれないが、よくよく考えれば言葉の重みが全然違う。

 

私が心がけてるのは「愚直にありのままをストレートな言葉にする」だ。

 

遠回りかもしれないが私はこれが一番の近道だと信じている。